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| 庚午事変は、徳島版家老で淡路領主だった稲田家が、分藩運動を起こしたことに始まる。水竹らから主従関係を重んじる儒教を学んでいた徳島藩の若い藩士らは、これを藩主への反逆として憤慨し、武力で阻止しようとした。そして徳島藩校・長久館の学頭(校長)だった水竹は事変の「精神的支柱」としての責を問われ切腹刑に処せられた。 若いころ水竹は、徳島藩料理方だった父親の春洋や、徳島藩お抱えの儒者ぜいあん(藩儒)である岩本費庵、なばかくほう那波鶴峰らに学問・詩書を学んだ。父の春洋は四十代の若さで佐古の大安寺で憤死しており、後に水竹も同じ道をたどることになる。幕末の徳島藩は、板野郡あきたのも川端村出身の安芸田面を中心とした幕府の維持を望む公武合体と、佐古出身の中島錫胤らの倒幕を企てる尊王懐夷の間で揺れていた。水竹は、徳島藩儒の合田櫓齋に紹介され江戸の昌平坂学問所に入学。主君尊重を説く儒教を学ぶことで、自然と尊王派に傾いていった。一八六一年には徳島藩儒となり、藩論を尊王にまとめるべく本格的に活動を始めた。一緒に活動した人物には中島や合田のほか、同じく藩儒の増田龍瀕がいる。彼らと力を合わせ、水竹は公家や尊王派の中心の長州藩士らとも熱心に交わった。 しかし一八六三年に状況は一変。まず、中島らが足利尊氏らの木像の首を切って京都の四条河原にさらして徳川家を冒涜した木像梟首事件を起こした。この事件で藩論が一気に公武合体に傾いた中、安芸が暗殺された。また政治クーデター「八・十八の政変」で公武合体派が本格的に政治の主導権を握ると、まもなく尊王派の水竹、増田は免職され、水竹は池田の郷学校(現在の小学校)へ、増田は大里(現海南町)の郷学校へ左遷された。増田は左遷の二年後、大里で亡くなったが、水竹は池田で教育者として活躍した。なお、井川町にある旧家・内田家のる「馬場家文書」には岩本と那波が水竹の下書きを校正した跡があり、水竹が師匠を尊重していたことがうかがえる。五年後の一八六八年には徳島藩校・長久館の教授に就任し、若い藩士らの教育に熱心に当たった。水竹の一番弟子で、書家として有名な柴秋邨は、庚午事変で水竹が漢文で書いたげき文を分かりやすく書き直したことで禁固刑を受け、同事変の翌年に死亡した。潮見寺(徳島市二軒屋町)にある水竹一家の墓に「師水竹新居先生」と彫られているが、これは水竹の死を嘆きながら秋邨が何日もかけて書いたという。翌年に亡くなったことも水竹の死があまりにもショックだったからといわれるほど、師匠として水竹を慕っていた。その秋邨に学び、水竹の孫弟子に当たる人物が阿部興人だ。庚午事変では終身禁固刑に処せられるが、のちに許され県議会議員を経て衆議院議員となり活躍。議員辞職後は北海道で実業家としても名をはせた。 水竹の二男の敦二郎は、「学問をして、教育者になれ」という水竹の遺書どおり、徳島中学(現・城南高校)の初代校長を務めた。明治前半の自由民権運動でもリーダーシップを発揮し活躍している。 儒教の精神を若い志士らに強く説いていた水竹は、結果的に事変を招いてしまった。そのため若い優秀な人材が多く処罰されたことは明治期以降の徳島にとって大きな痛手だ。水竹が切腹の直前まで二十五年間書き続けた日記「水竹居日記」(徳島文理大所蔵)は水竹の儒学者としての行動や交流関係、また当時の出来事も書かれている素晴らしい資料だ。まだ不明な点も多いので、それらの資料を丁寧に洗い直し、徳島の明治維新を再構築したい。 |